Reaction to
「統計学パラダイムの変換に向けて」

したいのは やまやまなれど なかなかに うまくいかぬは collaboration
(よみひとしらず)

そうなんです.応用研究と方法論,双方が「車の両輪」となっての共同研究がさまざまな面で有意だというのはよく分かります.しかし,言うのは簡単なんですが,じゃあ実際どうすりゃいいんだ,と考えるとこれが案外難しいのですね.

例えば,今私はある企業と組んで大規模サンプルの質問紙調査を計画しており,来年初頭にデータを収集する予定です.その質問紙調査の結果を(せっかく熱心に勉強したのだから)構造方程式モデルに基づいて分析しようという心づもりでいます.しかし,これを「共同研究」にできるのだろうか?と考えると,「よくわからない」のです.「できない」でも「できる」でもなく「わからない」のです.「かのせんせ,このデータってどう分析したらいいんですか?」という問いならばいくらでもできるというのに!

なぜ「わからない」のか.共同研究のパートナーを探す場合,我々が何を重要な判断規準としているのかが大きく関わっていると思います.「どの程度関心や目標を共有できるか」という「類似性」と,「欠けている部分をどう補い合えるか」という「相補性」,パートナーシップを組むことによってこの両者が満たされれば理想的であり,特に相補性は学際的共同研究の妙味でもあると言えるでしょう.ただ,相補性は類似性がある程度保障されているという前提条件があって初めて生きる,いわば二次的規準ではないでしょうか.応用研究と統計学の関係は多分に相補的であり,その相補性があまりにも salient であるが故に,類似性をどこに見つけたらいいのか「わからない」のです.

狩野さんはよく「応用研究者は科学としての統計学を必要としていない」と嘆いておられますが,それはつまり,類似性をどこに求めたらいいか分からないままに,相補性だけを求め合っている状況が喚起する不幸ではないかと思います.社会心理学者は「自分の解明したい社会現象/人間行動に関するモデルが科学的に証明できるのであれば,どんな方法でもいい」と思い,(数学出身の)方法論者は「ある新しい方法論を使ってみることができるのであれば,データの中身なんか何でもいい」と思う.そこに相補性は存在しますが類似性は見られず,それどころかお互いでお互いの関心を踏みにじり合っているようなものです.実際,狩野さんの言の端々からも(これまでのコンサルティングがたまたまそういう不幸なケースばかりであったのかもしれませんが),そういう認識を抱いているんだろうなと思わせるニュアンスが感じ取れますし,そのことは正直申し上げて「類似性を見つけたい」という私のモティベーションを(少しずつですが)削っています.

「統計学」という単語を聞いただけで「ごめんなさい,わかりません!」と逃げ出したくなる気持ちを抱え,「今やっている分析は正しいのか?」という不安に常にさいなまされている私にとっては,単に相補性だけを求める方に「日和る」方がずっと楽です.しかし,狩野さんは「ありがたいご託宣をくださるえらいひと」,私は「迷える子羊」という関係にはなりたくない,できれば対等な立場で物の言える「共同研究者」になりたい,という思いが,私に「やせ我慢」をさせてきたわけです. はてさて,この我慢,いつかは有意な共同研究となって実を結ぶのでしょうか?それとも「追いかけさせる」くらいの存在にならなければ,所詮見果てぬ夢,ですかね?

参考文献
岡田猛 1999 科学における共同研究のプロセス (岡田・田村・戸田山・三輪 1999 科学を考える−人工知能からカルチュラル・スタディーズまで14の視点 北大路書房)


[もどる]