シリーズ:統計学の現状と今後
「ノーベル賞と統計学」

[読みものページへもどる] 大阪大学 大学院人間科学研究科 狩野裕
2003年のノーベル経済学賞がカリフォルニア大学のグレンジャー教授(統計学)とニューヨーク大学のエングル教授(経済学)に授与されたことは記憶に新しい.彼らの業績は,多変量時系列モデルによる因果性検証や,アーチモデルと共和分分析法の確立であり,それらを用いた経済現象の実証研究であった.刈谷武昭教授による記事(2003年10月15日付日本経済新聞朝刊)によると,英国の数学・統計学大学院を修了したグレンジャー氏は,プリンストン大学の「スペクトル分析の経済分析への応用」プロジェクトへ参加する.その後,カリフォルニア大学へ移り,そこへノーベル賞を共同受賞したエングル氏を招聘,経済時系列理論と方法の研究拠点をつくり,そこでの研究が今回のノーベル賞につながった.なお,エングル氏は米国統計学会(ASA)の会員であり,Amstat News の最新号(#318)に受賞記事が掲載されている.

2002年のノーベル経済学賞の受賞者の一人はプリンストン大学のカーネマン教授(行動経済学・認知心理学)であり,授賞理由は,不確実性の下での人間の判断など心理学的研究を経済学に導入したことであった.行動経済学では,人は不確実性下では合理的な判断をするとは限らないという前提で経済や金融を捉えようとする.カーネマン氏は故トバスキー教授とともにプロスペクト理論や心理的会計簿を唱えて行動経済学の基礎を確立した.カーネマン氏は心理学の博士号をもち,APA(アメリカ心理学会)やPsychometric Society(計量心理学会)のメンバーである.当時は心理学者にノーベル賞が授与されたと話題になった.もう一人の受賞者はジョージメイソン大学のスミス教授(実験経済学)で,経験的経済分析,特に市場メカニズムの研究において,実験的手法を確立したことが評価された.これらの研究においては,心理学的実験と調査,そして,そこでの統計的分析が重要な位置を占めると考えられる.

一方,カーネマン氏の盟友であったトバスキー氏(スタンフォード大学,1996年 没)は,認知バイアス(cognitive bias)で有名な心理学者であり,統計学や計量 経済学にもインパクトを与えた.学術誌 Cognitive Psychology や Journal of Mathematical Psychology に出版された論文の中にはクラスター分析についての 研究も多く,また,Journal of the Royal Statistical Society に,不確実性の評価(assessing uncertainty)についての研究を read paper として出版している.もちろん計量経済学の専門誌である Econometrica にも多くの論文がある.トバスキー氏の追悼文にはエフロン教授がメッセージを寄せている.こられの点を鑑みると,カーネマン氏のノーベル賞は,心理学や経済学,そして,その方法をつかさどる統計学を併せた総合的学問研究上にあるように思う.

ヘックマン教授(2000年受賞)は200を超える論文を執筆しているが,その中には 約1割の数理統計学の論文が含まれる.ショールズ教授は金融工学においてブラッ ク-ショールズ モデルを考案し,マートン教授は確率論における伊藤の公式を用いてそ の公式の正しさを数学的に証明したことで,両者は1997年に経済学賞を受賞している.このように,ノーベル経済学賞の受賞者には統計学に片足を踏み入れた研究者が多い.

多変量解析の一分野である構造方程式モデリング(SEM; Structural Equation Modeling)は,心理学,行動学,教育学などの社会科学における分析手法の定番である.ヨレスコーグ(Joreskog)教授は,1970年前後に発表したいくつかの論文によってSEMの基礎を与え,その後もSEMの第一人者としてその発展に大きく関わってきた.1999年の末にヨレスコーグ氏の退官記念シンポジウムがシカゴで開催された.そこで科学哲学者であるムレイク教授(ジョージア工科大学)が

Joreskog should deserve the Nobel Prize!

と言っていたことが記憶に残る.社会科学の方法論を一変させた彼の業績は,ノー ベル賞が心理学や社会学を直接の対象分野としていたならば,有力な候補となったことは間違いない.ヨレスコーグ氏は,「ユーザーがSEMを育てた」と述べている.心理学者や社会学者が問題とする現象を理解するためのモデル構築,それがSEMの発展そのものであった.

これらのことから私たちは何を学ぶべきなのだろうか.統計学の理論研究が重要 であることは論を待たない.ノーベル賞が統計学の理論研究を授賞対象にしてい ないということで応用研究だけが重要だということにはならない.時系列解析の 基礎理論が完成されていなければグレンジャー氏らの応用研究は成功しなかった であろうし,伊藤の公式がなければ金融における応用研究は今のような発展が見 られたであろうか.しかし,グレンジャー氏らの業績を時系列分析の一応用,マートン氏らの業績を確率微分方程式の応用例に過ぎないといって,意識的に応用研究から距離をおき,統計学や確率論のアイデンティティを保とうとするようなことがあれば,それは問題である.

このことと関連して,いくつかの研究分野を横断する研究の重要性を指摘したい.グレンジャー氏やエングル氏は経済学者でありかつ統計学者だということである.カーネマン氏やトバスキー氏は心理学者であり経済学者であり統計学者でもある.ある意味で,経済学・心理学や統計学の枠組みを超えた学問領域の総合化がノーベル賞に結実したといってよいのではないか.境界領域の活性化,理論と応用が手を結ぶ,方法と実質科学の連携等は多くの分野で指摘されつづけていることであるが,特に米国では,そのような研究が推奨され,実際に行なわれ,実を結んでいる.

統計学の理論研究は理論研究者のコミュニティで洗練される.しかし,統計学が成熟した学問となった現在,そのようなコミュニティ内の議論だけでは袋小路に陥る可能性がある.理論研究を主にしつつも,実際の応用現場との接点を持ち,統計学の方法論としての位置づけをいつも意識しておく必要があるように思う.

さて,一般に,日本のアカデミアでは(異分野間の)共同研究や境界領域での研究が盛んでないように感じる.ほとんどの数学者は数学会以外の学会に所属していないし,先に述べたように,統計学界では,たとえば,理論研究者は彼らのコミュニティで閉じていることが多い.この問題には文化的側面とシステムの問題があると思われる.刈屋氏は同じ記事において,グレンジャー氏がエングル氏を招聘したことに対して「優秀なもの同士が優れた研究成果を求めて互いに引き合う米国の研究風土があったろう」と述べている.日本にこのような文化があるだろうか.

欧米では多くの研究者が専門をスイッチしている.学部から大学院へ進学する際, または,大学院に在籍中に専攻を変えるのである.たとえば,エングル氏は学部 では物理学を専攻するが大学院で経済学へ転向しているし,スミス氏は学部で電 気工学を専攻し大学院で経済学を,そして,ヘックマン氏は学部で数学を大学 院では経済学を専攻している.このように,欧米の大学院では多様な人材が集ま り,そして,このことが大学院教育の幅を広げている.また,たとえば,理科的素養 をもった心理学者は理科系学部の研究者とのコミュニケーションがスムーズに行 なうことができるだろう.一方,日本では,研究室間や学部間の垣根が高く,な かなか専門をスイッチすることができないように思う.また,アカデミックポス トへの就職に際しても,出身大学へ就職することが少なからずあり,学部生から 就職し定年を迎えるまで何十年も同じ大学で生活する研究者もいる.そのような 状況の下,日本学術振興会の特別研究員は所属研究室を代えることが推奨されており, その効果が期待される.

統計学者と統計学を専攻する大学院生は,方法論者としての研鑚を積むだけではなく,深くコミットする応用分野を持つべきだと思う.一般に統計学者には多くの分析相談が寄せられるが,単に分析のコンサルタントをするだけではなく,対象現象を深く理解し,その分野の学会へ足を運ぶような応用分野を少なくとも一つ持つようにしたい.先日,AIC誕生30周年を記念する国際会議(Science of Modeling)に出席した.そこで赤池弘次教授はゴルフスウィングデータの解析についてご講演なさったが,特に対象現象を深く理解することの重要性を説いておられた.

特に多変量解析においては,21世紀は現象のモデリングが重要な仕事になると予想している.しかし,現象の理解なくしてはモデル構築は不可能であろう.統計学やモデリングのノウハウをもった統計学者が応用分野の研究者と共同研究することで,対象現象の理解を深め,新しいモデルを共同開発する.このような研究を積み重ねることが,統計学の健全な発展を促すのではないだろうか.そのための基盤整備が急務である.

宿久洋広報担当理事から本連載の原稿依頼を受け拙文を寄稿させていただいた.この機会を与えてくださった同氏に感謝したい.


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