豊岡先生から学んだこと

大阪大学人間科学部 狩野 裕

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私の学究生活のスタイル,そして教育研究への姿勢の基礎を築いてくださったのが豊岡康行先生である.豊岡先生には,大学院(基礎工学研究科)修士課程に入学したときから,後期課程1年の秋に豊岡先生が米国へ留学されるまで2年半にわたって,研究に関することから研究者のあり方にいたるまで,随分とご指導いただいた.私の指導教授である丘本正先生と並んで,最も影響を受けた先生である.

大学院での教授の役目は研究指導である.それは,学生の側から見ると,教授の背中を追うように感じるものである.一方,助手の職責は教授と学生のインターフェイスになることであり,何でも聞き話せる身近な先輩研究者といえようか.研究に熱心なあまり,助手室の鍵を閉めて学生が入ってこないようにするのはもっての外だが,よく仕事をする助手の先生にはこれに近いタイプもいるのではないか.豊岡先生は後ほど述べるように大変研究熱心な先生であったが,それにもまして学生と接触する時間を惜しまない先生であった.私が修士課程2年生のとき,分析する変数の数(確率ベクトルの次元)と適切な分析をするのに必要なサンプルサイズとの関連を調べていて,その研究に行き詰まっていたとき,豊岡先生は『昔僕もよく似たことをやっていたから』とおっしゃりながら夜遅くまで議論に付き合ってくださった.その甲斐あって,修論の一部であったその研究は学術雑誌に出版することができた.豊岡先生は阪大に約7年在職された.彼のおかげで,私のように論文を書くことができた院生は随分いるのではないかと思う.私も豊岡先生にならって,学生の質問や雑談にはなるべく時間を割くようにしているが,先生のようにはなかなかできない.根っからのタイプA人間だからであろうか.その豊岡先生も『日曜日は(出勤して),研究室の鍵を締め電気を消して研究する』とおっしゃっていたが,このことは,もちろん誰でも理解するであろう.

私が院生のころ自主ゼミが流行っていた.豊岡先生も院生と一緒にいくつかの自主ゼミをやっておられた.院生が多かったこともあるが,今から考えると豊岡先生が自主ゼミの火付け役を果たしていたのではないかと思う.あのころは,私を含めて,口だけは達者だが...という院生がたくさんいた.酔っぱらって「統計学を研究して何になる」「なぜ職が無いのか」などと生意気に突っかかった我々に対して真摯に対応しておられた「まじめな」豊岡先生が,今でも目に焼き付いている.

豊岡先生はまじめである.まじめに一生懸命努力するということをいつも強調しておられた.『一生懸命努力すると,私のようなものでも阪大の助手に採ってくれるのだ』というのが口癖だった.私が修士課程を終えて博士課程に進学した5月頃,珍しく豊岡先生から夕食のお誘いがかかり,石橋駅からすぐの丸三寿司でごちそうになった.『D1は一番だれる時だから,しっかり勉強するように』と言って激励するために私を誘ってくださったのだった.今から考えても,どうしてこんなにまじめに仕事ができるのだろうと疑問に思ってしまう.豊岡先生は阪大の出身でもないのである.先輩が後輩に頑張れと激励するのはよくある姿だが,出身大学でもない学生をここまで温かく指導できるのであろうか.さらには,当時の基礎工数理の助手のポストは内部昇格を認めていなかったから,どうせご自身は数年で外へ出る身分なのである.『各所全力』という言葉も豊岡先生から学んだような気がする.いつ移動するか分からないけれど,与えられた環境で精一杯努力する,このような意味に受け取っている.

あるとき,基礎工シグマホールで豊岡先生主催の時系列解析に関する科研費シンポジウムが開かれていた.講演者がどなたであったかはっきり覚えていないが,当時理学部教授でいらっしゃった池田信行先生がかなり意地悪い質問をなさった.時間が十分なかったこともあり発表者の回答は不十分なものであった.次の講演が始まったが,豊岡先生はこそっと池田先生のところへ行き,講演者に代わって一生懸命説明しているのである.何と「まじめな」先生なんだろう.この学問に対する真摯な態度はどこからくるのだろう.もう15年以上は経つが,そのときの印象は鮮烈である.

如何にして時間を作るか,どのようにして人間関係を上手く保つか,ということの重要さと難しさを教えてくださったのも豊岡先生であった.当時,毎週月曜日に「月曜セミナー」と称する統計学に関する研究会が開かれていた.阪大の統計学を専門にする先生方や院生,そして近隣の大学の先生方らが多く参加しておられ,活発な議論が繰り広げられていた.セミー終了後,豊岡先生の研究室でお茶を飲みながら歓談することが頻繁に行われていた.話題はセミナーに関することから次第に雑談に変わっていくが,豊岡先生は結構長い時間付き合っておられた.『雑談に付き合うのは時間がもったいないが,ある程度の付き合いは必要だ.兼ね合いが難しいね.私は,頃合いを見計らってそっと抜け出しタイプを打ちにいくことにしている.そのためにタイプ打ちの仕事を残しておくのだ』という話をずいぶん後になってうかがった.

先に述べたが豊岡先生は私が博士課程1年生の秋に米国に留学された.Iowa State University の Fuller 教授の下へである.私は英語がからっきし駄目だったし,周りに外国へいく院生もいず留学なんてことを考えたこともなかったから,これはすごいと思った.そこで,米国へ発つ直前にいろいろ伺った.『(留学するには)まずラヴレターを書くんだよ.日本人研究者が訪問したいといえばまず断られることはない.あとは条件だ.講義ノルマなしでどのくらいお金を出してもらえるかがポイントだ』と教えてくださった.このご教示で「ラヴレター」という表現が面白くて今でもはっきり覚えている.アメリカの大学からお金をもらうのか,こりゃすごい,と当時学位も無かった私はショックを受けた.この豊岡先生の言葉をずっと覚えていて,2年後幸運にも学位を出してもらった時,学位論文とともに「ラヴレター」を外国の著名な教授に送った.そのときから,何人かの外国の教授との交流が始まることになり,特に,P. M. Bentler 教授 (UCLA) と M. W. Browne 教授 (University of South Africa 当時) との付き合いは,その後の私の研究生活に極めて大きな影響を与えることになった.

留学に関して「ラヴレター」の他にもう一つ影響を受けたことがある.それは『自主的に外国へ行く』ことである.つまり,文部省在外研究員が当たったからだとか,サバティカルの順番が回ってきたから外国へ行くのではなく「自分から行く」ことであった.そして,平成元年度1年間「自主的に」Bentler 教授の下へ行くことになった.もちろん,当時の上司であった稲垣教授が「自主的に行く」ことを許してくださったからできたのである.結果的に見て,この時期に自主的に行かなければ,今まで在外研究はできなかったと思う.

豊岡先生が一度だけ自慢話をされたことがある.『今年は調子がいいな,でも,こんな年ばかりではないぞと丘本先生に窘められた』というのである.当時よく分からなかったが,その年,統計学の一流紙に数本論文が掲載されたことを丘本先生に報告にいった際,そのように言われたということらしい.にやりと笑ってそのことを私におっしゃった豊岡先生は,大変満足げであった.

豊岡先生には,私が大学院を出て就職した後でもお世話になった.ある年,年賀状に「最近論文が書けずスランプです」と書いたことがあった.すると,お正月であるにもかかわらずお電話を頂戴して『スランプの脱出方法はサーベイ論文を書くことだ』とお教えいただいた.このコメントはなるほどと思う.私も,後輩にこのコメントを使わせてもらったことが何度かある.また,昨年,幸運にも私が第11回の小川賞を受けた時,猪の一番にお祝いのカードをくださった.豊岡先生は第2回の小川賞受賞者であり,受賞が決まった時,謙遜して『こんな論文で小川賞を頂戴していいんだろうか』という意味のことをおっしゃっていた.

以上のことを,私は生前の豊岡先生にお伝えしてお礼を述べておきたかったとしみじみ思う.私は学生時代本当に良い先生にお世話になったと.豊岡先生にはもっともっと学生を育てていただきたかったと思う.享年48歳というのはあまりにも若すぎる.豊岡先生の統計学への想い,若い学生への想い,これらを直接賜った私たちが,先生に替わってその想いを遂げるというのはあまりにも大胆であるが,先生に一歩でも近づけるよう努力しようと思う.それが豊岡先生が私たちに望んでくださっていたことでもあり,そうすることが天国にいる豊岡先生が最も喜んでくださることと思うからである.


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