統計学パラダイムの変換に向けて:
「有意な共同研究」のススメ

Towards transition of the statistics paradigm:
Statisticians should make significant collaborations with applied researchers
大阪大学人間科学部 狩野 裕
シンポジウムでは「統計学パラダイムと多変量解析」なる演題で講演したが,多変量解析についての報告は省略した.そこで,本論文では上記のタイトルに変更した.
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1.序
わたしの属する人間科学部行動計量学講座は行動科学における方法論を教育・研究している.キーワードは統計学とコンピュータである.しかし,学生にはまったく人気がない.毎年,講座配属が行われる10月が近づくと,本講座のスタッフは学生確保に血眼になる.まず,講座訪問に勧誘する.学生がやってくると,コーヒー・ケーキで接待する.WEBやスライドを使って講座紹介を行い学生とのコミュニケーションを図る.2〜3時間はあっという間に過ぎる.学生諸氏はぱらぱらと五月雨式にやってくるから,講座紹介に費やす時間は相当である.もちろん,スタッフの懐も寂しくなる.

我々は1年生に統計学を教えている.必修であるから出席率はよい.人間科学部では,統計学をまったく必要としないコースもあるから,「必修指定を外せ」という圧力がかなりある.我々は必修指定を守るべく運動を続けている.必修指定が外れると統計学を必要とする学生も受講しなくなるからである.

ある大学の情報関係の学科での話である.1年生が短冊に何やら書いている.「数学や統計学を専攻するコースに行かされないように」というお願いであった.このコースには約1割の定員が割り振られているが,希望者が少ない場合は,強制的にこのコースに廻されることがあるらしい.

このように統計学が人気がないという事例は枚挙に暇がない.

時流に乗る学問もあれば地味な学問もある.学問分野というのは,あまり流行にとらわれ過ぎずにバランスよくなければならない,というコンセンサスの下で存在している.が,このコンセンサスだけで統計学が生き残っていけるのであろうか.独立行政法人化が叫ばれる昨今,統計学の必要性,統計学者の必要性,そして,学生に魅力ある統計学,これらを積極的にアピールできないと,21世紀には統計学は死んでしまうのではないか.吉村[5]が提起したパラダイム論議の重要性は,まさにここにある.

我々は統計学者である.統計学者として教育したいこと研究したいことがある.しかし,それを実行するためには,(i) 統計学者のポストが必要である.(ii) ポストが継続されていることが必要である.(iii) 充分多くの学生が講義を受けに来ることが必要である.(i)-(iii) のために統計学者として行わなければならないことはたくさんある.そして,それらは必ずしも我々が行ないたいこととは一致しない.我々が真に教育したいことや研究したいことを実行するためには,その基盤整備をしなければならない.基盤整備で手を抜いてはならない.

2.統計学のパラダイム
パラダイムとは学問の枠組みである.統計学の鍵雑誌である Biometrika が創刊されたのが 1901 年,アメリカ統計学会が発行する雑誌である JASA は今年 Volume 94 を発行している.統計学が学問として一人立ちして,およそ100年と言えようか.そして,1930年代までに,フィッシャーやネイマン,ピアソンらによって統計学のパラダイムが完成されていった.

科学史家クーンによると,パラダイムとは「ある時代の支配的な科学的対象把握の仕方」であり,通常科学と異常科学があるという.通常科学とは,学問の枠組みが規定されて,研究者は,その枠組み内でのクイズ作成とクイズ解きに耽溺している状態をさす.一方,異常科学とは,学問の枠組みが大きく変化するときであり,天動説から地動説への変化が典型例として挙げられている.

私は,統計学は,クーンのいうようなドラスティックなパラダイムの移行を経験してはいないと考える.しかし,これはパラダイム変化を起こさなくてもよいという意味ではない.序で述べたように,近々何かを起こさなければ,統計学の未来は明るくないと感じている.

では,いまなぜ,従来の枠組みでの研究に魅力や活力がないのであろうか.従来の統計学が対象としてきたデータは,等質で静的な中小標本であった.そのようなデータから如何に情報を汲み取るか,より基本的には,有効に情報を汲み取るにはどのようなデータの採り方が求められるか,このようなことが議論されてきた.しかし,このフレームワークの下で,やれることは大体やり尽くされ,次のブレークスルーを待っているというのが現状であろう. 新しいパラダイムを模索するのは,ブレークスルーを求めるためということもあるが,より深刻なのは,従来の枠組みにははまらないデータが多数出てきたことによる.つまり,異質で動的な大標本が分析の対象になってきたのである.また,そのような分野で,統計学者以外の研究者,特に,情報(工)学者の活躍が目立ってきた.データマイニングがその典型例であろう.

3.外圧
魅力は相対的である.推測統計学が日本に輸入された頃は,おおいにもてはやされたと言う.しかし,情報(工)学の台頭は,統計学をメインストリームから追いやってしまった.コンピュータ時代となって,情報(工)学という名称は魅力的である.学生にとっては統計学はやや古めかしいと感じてしまうのであろう.しかし,実は情報の分野での研究テーマで統計学的なものもかなりある.分野によっては,主成分分析や因子分析という伝統的な多変量解析の手法が研究されている.本来統計学界で議論されるべきテーマが情報の名の下で研究されているのである.

情報(工)学専攻の学生の中でも,純粋の情報(工)学を専攻したいというよりも,コンピュータを使って何かしたいと思って入学する学生もかなりいるのではないか.データ処理や視覚化など,統計学は最もコンピュータを有効に使える分野の一つと考えられるが,そのような学生が統計学を学ぶ環境が十分に開かれているとは思えない.

70年代以降,カオスやフラクタルなど複雑系と呼ばれる新しい数学が研究されている.複雑系というのは,いわゆる要素還元主義が当てはまりにくい現象への,現代科学では唯一ともいえるアプローチである.確率が必要なのは人間が「無知」であるからだという考えの下では,「無知」が解明されるにつれて統計学の守備範囲が狭くなる.しかし,複雑系では,ランダムネスが本質,あるいは本質に近いから,まさに統計学が活躍できる場のはずである.しかし,なかなか(日本人)統計学者の活躍が見えない.

4.パラダイム変化の原動力:「有意な共同研究」
前節までで述べてきたように,統計学のパラダイムを何らかの方法で変えていかないと,日本の統計学は斜陽の一途をたどるのではないかと思われる.では,21世紀の統計学パラダイムとは何であろうか.上記で見てきたように,近々の課題としては,複雑系・データマイニングなど主に情報(工)学において研究が進んでいる統計学ないしはその近隣分野での貢献であろう.つまり,方法論の分野における相互乗り入れや共同研究である.しかし,パラダイムを変化させるためにはより大きな力が必要である.

筆者は,統計学のますますの発展を促すため,「有意な共同研究」を推奨したい.応用の研究者と一緒に「有意な共同研究」を行うということである.方法論の研究と応用研究は車の両輪である.お互いに情報を交換しながら発展していくのが自然である.つまり,統計学は方法論としての原点に帰るべきなのではないか.方法論はセルフコンテインドではなく,他の応用分野と関わりながら成長する.科学的方法論については浅田 他 [1] を参照されたい.

「有意な共同研究」とは,アカデミックに関して有機的につながることである.今でも,応用の研究者と共同研究している統計学者はたくさんいるし,共著者として応用論文に名を連ねている.「有意な」という意味は,分析担当に留まらず,応用研究において必要となる新しい方法論を開発すると同時に,その方法論が統計学の分野でも評価されることである.例えば,心理学者と共同研究したとしよう.理想的には,心理学者が第1著者で統計学者が第2著者という応用研究の論文を心理学の雑誌に掲載し,さらに,統計学者が第1著者で心理学者が第2著者の方法論に関する論文を統計学の雑誌に掲載する.新しい方法論は,統計学界の中でブラッシュアップされ,抽象化されるであろう.そのような機会を失してはいけない.応用研究からの刺激を受け続けること,そしてそれらをベースとする研究の積み重ねが,統計学パラダイムを変革させるのではないかと考える.

統計学者が統計学のパラダイム変化を語る資格がないという議論がある.これは統計学に限ったことではなく,あるパラダイムの下で育った学者は,究極には,そのパラダイムを否定しきれないという主張である.そこで,応用研究者との共同研究を通じて,外からの刺激をバネに,パラダイム変化を起こそうというのである.

「有意な共同研究」とは具体的に何を指すのか.代表例はモデル構築であろう.ここにあるデータ,続々とやってくるオンラインデータ,今から採るデータ,これらのデータをその生成過程に照らして,どのようにモデル化するか.そして,モデルを通してデータのもつ情報を如何に引き出すか.これらに統計学者はコミットできる.どう分析するかの前に,どうモデル化するかが重要である.

実は,「有意な共同研究」のモチベーションは,次節で議論する統計学者の地位にも大きく関わる.

5.インパクトファクターのインパクト:統計学者のアカデミックでの地位
研究雑誌を評価する基準にインパクトファクターがある.インパクトファクターは,当該雑誌に掲載された論文の引用率と考えてよい.

表1.インパクトファクター(1997年 SCI, SSCI Journal of Citation Report [3],[4]より)

雑誌の学問的インパクトを論文引用率で評価しようというのである.統計学関連の雑誌のインパクトファクターを表1の左列に示している.一般的に言って評価の高い雑誌のランクが高いことが見て取れよう.ということは,その道の専門家ならば,専門分野における雑誌の価値はインパクトファクターを参照しなくとも分かるのである.また,自分の専門領域における論文の価値は読めば分かるから,インパクトファクターに頼るより正確である(インパクトファクターは級内変動には無力である).

インパクトファクターの利用価値は分野間比較にある.言い換えると,論文の価値が評価できない第三者が業績評価するときの比較規準を与えるのである.表1中・右列には,統計学以外の分野のインパクトファクターを挙げている.例えば,有名な科学雑誌である Scienceと Natureのインパクトファクターは24.676と27.368である.これらを見ると,統計学雑誌のインパクトファクターはかなり低いことが分かる.計量心理学を研究テーマとしている筆者は,Psychometrika に論文を掲載することを目標として今まで研究活動をしてきたが,心理学でのトップジャーナルであるPsychological Review やPsychological Bulletin のインパクトファクターはPsychometrikaの10倍である.Psychometrika へ10本の論文を掲載して,Psychological Review やPsychological Bulletinの論文1本分という勘定になる.このようにインパクトファクターに関しては統計学者の地位は決して高くない.

インパクトファクターの欠点を挙げることはやさしい.しかし,研究分野間の比較尺度がない現状では,インパクトファクターは決定的である.

実は,方法論の雑誌はインパクトファクターに関しては有利なはずなのである.実際,窪田[2, 133ページ]は,インパクトファクターの問題点として引用の「方法論への集中」を挙げている.にもかかわらず,統計学雑誌のインパクトファクターが低いのは,統計学者の努力不足,ストラテジーが適切でないということではないだろうか.方法論者は方法論の一流誌に論文を掲載するというだけでは不十分である.新しい方法論や既存方法論に対する新しい知見など統計学の新しい成果を,応用の研究者に認知してもらえるよう努力する義務がある.方法論の業績としては,応用研究者の評価も重要ではないか.

6.統計学科をもたないこと
 学科に名前が冠されている学会は潰れないという.数学科があれば数学会は潰れないという主張である.その中で,我々が,数十年前,統計学科をもたないという選択をしたのは注目に値する.統計学は応用分野と密接に関連している学問であり,統計学しか知らない統計学者を輩出するよりも,応用分野から統計学に興味をもった学生を育てる方が,統計学の健全な発展に寄与するという考えであった.私は,日本ではこの選択は正しかったと思っている.米国や英国の統計学科では,応用研究者との共同研究が大いに推奨され,実際,多くのスタッフや院生は共同研究をしている.一方,日本ではどうか.悲しいかなそのような共同研究は多くないと思われる.統計学科が出来ていれば共同研究はもっと少なくなったであろう.この意味で,筆者は統計学科をもたなかったことに異論を唱えないのである.

共同研究が少ないという主張に対して異論がある人もいると思われるので,もう少し説明したい.実は,共同研究自体は少なくないのである.問題は,方法論を積極的に開発している統計学者には,応用研究が少ないことである.一方,応用研究に分析担当として参画している人は多数いるのであるが,方法論への貢献はあまりないのである.つまり,方法論の積極的開発者と応用研究での分析担当者とが乖離しているのである.確かに,実質科学分野のデータ解析や分析のコンサルティングは易しくない.データ解析の技術は一朝一夕で身につくものではない.方法論の開発とデータ解析を両立させることは大変難しいのである.だが,この乖離は統計学に決定的な打撃を与える可能性がある. 応用の研究者は分析担当の統計学者をどのように評価しているのであろうか.確かに,分析の専門化としての評価や分析をしてくれることに対する感謝はあると思われる.統計学者を奴隷とは思っていないであろう.しかし,研究者としての評価は高いのであろうか.

工学部の数学関係の学科(S学科という)に勤めているときに興味ある体験をした.工学部の助手や院生はS学科の先生を大変高く評価している.あの難しい数学を専門としており,テキストの分からないところを訊きに行ってもすぐ答えてくれる.S学科の先生はエライという訳である.しかしながら,年齢を重ねていくにつれて評価は厳しくなる.S学科の先生は論文を書いていないという批判である.数学の業績を,年に10本以上も論文を書く工学部のスタッフのそれと,論文の本数で比較すること自体まったく無意味なのであるが,ここで言いたいことは,研究者の評価基準が,自分が出来ないことを専門としているというある種の憧憬から,研究成果へと変わっていくことである. 統計学者を外部から評価するのは,統計学を使う応用の研究者である.彼らに接する統計学者の多くが分析担当に留まっていると,それは統計学界の評価を高めることにはならない.分析担当やコンサルティングは統計学者の必要条件であって十分ではない.

応用の研究者の統計学者への評価は,統計学科をもたない日本ではきわめて重要である.統計学科では,統計学者の後任人事は統計学者が行う.しかし,統計学科がない日本では,統計学者の後任人事は,他の分野の教授が取りもつのである.統計学の教授ポストが2つ以上あるところは,もう一人の統計学者が後任を決定するかもしれないが,そのような学科は日本にいくつあるだろうか.

応用の研究者が統計学者の後任人事を行なう.その際,統計学者を後任に選んでもらえる保証はどこにもないのである.そこで,応用研究者による統計学者の評価が重要になる.また,統計学のポストを他分野の研究者と争うときには,インパクトファクターがものを言うであろう.

そこで「有意な共同研究」が重要になる.応用研究において開発された新しい方法論が,統計学の専門誌でも評価されたということになれば,統計学者の方法論者としての,すなわち,研究者としての評価は高まるはずである.また,統計学者が開発した方法論を応用研究者に使ってもらえば論文引用が増え,その結果,統計雑誌のインパクトファクターも向上するのである.もちろん,新しい方法論によって得られる知見は,実質科学の発展に寄与する.

先に指摘したように「有意な共同研究」は新しい統計学パラダイムへの示唆を与えてくれると期待されるが,統計学者の地位を高めることにも,統計学ポストを守るためにも大いに貢献するはずである.

7.統計学者のアカウンタビィリティ
学部の低学年の学生に「先生は何を研究しているのですか?」と問われて,統計学者はどのように答えているのであろうか.また,工学部,医学部,文学部などで,同僚の教授は統計学者が何をしているか知っているであろうか.統計学者は,我々の職責を理解してもらうことにどの程度努力しているのであろうか.筆者だけの問題かもしれないが,数学畑で育ってくると,「他人の専門は分からなくて当然」という間違った認識が醸成されることがある.1990年にフィールズ賞を受賞した著名な数学者である森重文氏は,「私の研究を理解する数学者は世界に5人しかいない」という明言を吐いたが,これが高く評価される理由は,数学界のローカルルールによる.一般には,研究テーマは第三者に説明できるのが常識である.

筆者が,基礎工学研究科数理系専攻で修士過程の院生であった頃である.同研究科の他専攻の院生に「数理系ではいったいどんな研究をしているのか」と聞かれたことがある.具体的な対象をもたない学問や方法論は,第三者に大変分かりにくい.統計学者はそれを意識して,他の分野に比してよりいっそうの説明責任を果たさなければならない. 筆者は,学生の上記のような質問に次のように答えている.「t-検定を習ったでしょう.実験心理学のデータは分散分析するでしょう.社会心理学でよく出てくる質問紙調査の分析に因子分析を使うでしょう.t-検定法や分散分析,因子分析は統計学者が作ったんだよ.実質科学の研究とそれを進めるための方法論の研究は車の両輪みたいなもので,私は方法論の担当なんだ.」

筆者が筑波大学に勤務していた頃である.学内のカフェで院生らしき学生達の会話を小耳にはさんだ.「数量化ってSPSSでできるらしいぞ.」「数量化って日本人が作ったんだってね.すげえな.」

統計学者がアカウンタビリティを果たす一つの方法は,汎用パーケージのマニュアルに論文が引用されることである.少なくとも応用の研究者には,統計学者の仕事がよく理解してもらえる.しかし,残念なことに,汎用パッケージであるSASやSPSSに,日本人統計学者の論文がほとんど引用されていないのである.SASやSPSSは米国で作成されたものだから,日本人の研究を不当に低く評価しているのは事実であるが,日本人統計学者がSASやSPSSに採用されるような研究テーマを扱ってこなかったということもその理由の一つではないか.日本人統計学者のプレセンスを高める意味でも,汎用パッケージに採用されるような研究を奨励してよい.そのための指針は「有意な共同研究」から得られよう.

8.21世紀の科学の方向
本節では,もう少し広い観点から科学を見てみる. 21世紀の科学は20世紀にもまして応用に力点が置かれることになるであろう.「テオーリアの科学からプラクシスの科学へ」ということであろうか.お金が取りにくい学問や宣伝しにくい学問は生き残りにくくなるのではないか.国立大学の独立行政法人化(または,その議論)が,これらに拍車をかけるであろう.

しかし,日本の基礎科学ただ乗り論は依然として厳しく指摘されるところであるから,基礎科学の軽視は日本国全体の損失に繋がる可能性が高い.とは言うものの,基礎科学の軽視はまずいと訴えるだけで安穏としていられる時代は終わった.基礎科学を専攻する研究者ほど,広報活動・説明責任を果たす必要がある.自分の専攻する基礎科学が如何に大切かを,研究者や日本国民全体に向かって分かりやすく説明する義務がある.「有意な共同研究」は少なくとも近隣の研究者への説明責任を果たすことになるだろう.

もう一つのキーワードは「学問の分化から(浅い)統合へ」である. 20世紀は学問の分化の時代であった.数年前に創立50周年を迎えた日本数学会は物理学会から分化したものである.日本の統計学関連学会では,日本統計学会は2001年に創立70周年を迎え,また,その他の関連学会は戦後生まれである.統計学で有名な研究雑誌である Annals of Mathematical Statistics は 1930年に創刊され,主に確率論と統計学の理論研究を扱ってきた.この雑誌は1973年に,統計学を扱う Annals of Statistics と確率論を扱う Annals of Probability に分かれた.もちろん,数学や統計学ばかりではなく,20世紀には雨後の竹の子のごとく学会が生まれ,学問がどんどん分化していった.このように,20世紀では,学問分野を細分化し,専門家同士のコミュニケーションによって専門のディシプリンを確立していった.

しかしながら,この方向はディシプリンを効率的に深めるというメリットはあったが,他の分野との関わりを薄める逆作用もあった.21世紀にはこの反省が見られるのではないか.分化した学会が完全に合併するとは思わないが,浅い統合は行われるであろう.それは,複合領域の活性化を意味するだろう.ここでも,統計学者は「有意な共同研究」によって複合領域の活性化に一役買わなければならない.

9.数理統計学(者)の役割
 学問には深さが必要である.抽象化が必要である.推測統計の手法は確率論・数理統計学で得られた諸結果をベースに構成されている.最近の数理統計学における多くのディシプリンは,エンドユーザーには無関係なことが多い.学問の分化・深化のため,数理統計学はエンドユーザーから非常に遠いところに行ってしまったからである.しかし,統計学の学問体系を充実させるという意味で数理統計学はきわめて重要である.ただし,説明責任はある.自分の研究が如何に興味あることか,どのような道筋をたどればエンドユーザーにたどり着くのかなど,論文を専門誌に掲載するだけでなく,アフターケアが欠かせないだろう.

先に述べたように,最近は,「異質で動的な大標本」が分析の対象になってきた.これらの分析を如何にして行うか,このような場で数理統計学者の活躍が見えない.しかし,この問題は,恐らくは従来の統計学の枠組みでは捉えきれないから,数理統計学における新しいパラダイムが潜んでいるはずである.

日本の数理統計学者は,そのような時代の要請に十分には敏感ではないと思われる.筆者を含めて,数学科出身の数理統計学者にそのようなことを感じる.

数年前に,ある若手統計学者の公募応募に際して推薦状を書いたことがある.その統計学者は米国UCLAの数学科から統計学専攻でPh.D. を得ており,数理統計学者である.彼のVITAE を見てSoftware and Operating System Experience というセクションがあるのに驚いた.そこには,SAS, S-Plus, EQS, Matlab, Xlisp-Stat, IMSL, Unix, MVS, Windows, DOS とある.彼は数学科に在籍して数理統計学を専攻している間に,これらのソフトウェアやOSも勉強していたことになる.彼に聞いてみると実際のデータ分析もかなりやったとのことであった.統計学科はもちろんのこと,数学科で数理統計学を専攻しても,応用研究者との共同研究や分析補助が推奨され,実際しばしば行われ,公募の際には評価の対象となる.ここに,日本の統計学者教育と欧米の統計学者教育の違いを感じる.

たとえ数理統計学を専門としていても,実際データの分析の経験は大事であるし,応用研究者との接点をもちつづけることも重要ではないか.

10.統計教育
 本論文冒頭に,統計学は人気がないと書いた.しかし,書店に行けば,統計学のセクションは依然として大きい.ときには,全国に22の学科をもつ数学と同じぐらい幅を利かせている.世間は統計学を必要としているのである.

学生がいない大学はあり得ない.受講生のいない講義は不必要である.統計学の講義が無くなると統計学者は失職する.この意味で,統計学の講義の評価は研究の評価より重要である.統計学者は統計学なる講義を通して,大学における教育者としての存在意義を示さなければならない.我々は,「統計学の美しさを教えたい」「統計学の面白さを教えたい」「データの魅力を教えたい」「統計学を通して受講生に何かの影響を与えたい」などなど,種々多様なモティベーションで講義に臨む.忘れてはならないのは,講義内容が受講生や学部学科の需要に合っているか常にチェックしておく必要があることである.統計学の講座は高々1講座か2講座であるから,統計学を専攻する学生はごくわずかである.従って,そのような学生を中心に据えて共通教育をすることには無理がある.

一般に,受講生は,(i) 統計学のエンドユーザー,(ii) 統計学の知識を使う他の学問を専攻する学生,(iii) 一般教養として受講する学生である.この中で,(i) と (ii) については他の教官の評価の対象になる.学生の要求も明確である.統計学のエンドユーザーに対しては,学生がどのような手法を必要としているのか,特に,卒業論文でよく用いられる統計手法を講義することは欠かせない.そして,「統計学の講義を受けたことのメリット」を学生にも学生の指導教官にも実感してもらわなければならない.そうでなければ,統計学講義不要論が出てくる.(ii) については,他の講義科目の内容とのすり合わせが重要である.もちろん,このような前提の下で,データや統計学の魅力を如何に織り込むか,統計学者の腕の見せ所である.

卒業論文で統計解析を使う講座では,スタッフは「共通教育の統計学はまったく専門教育や卒業論文に役に立たない」と考えている場合がある.卒業論文を指導するとき,そこで用いられる統計手法は統計学の講義では習っていず,全部指導教官が教えなければならない,そのような愚痴をしばしば聞かされる.分野が違うとそこで使われる統計手法もまったく違うことがある.卒業論文や修士論文における統計解析は,我々から見てもマニアックであることしばしばである.その分野では伝統的な手法や処理であっても,汎用性がないことがある.汎用性がないマニアックな分析技法を共通教育である統計学に求めるのには無理がある.共通教育担当者は,そのようことを説明し納得してもらうという説明責任がある.そして,統計学講義不要論が出た際には,少なくとも統計的方法を使うスタッフには我々をサポートする側に回ってもらわなければならない.

統計教育においても,応用の研究者との共同研究は大いに役立つ.講義で使う例題が,学生の興味を引く実際的なものになるからである.

統計学を受講生にとって如何に魅力ある講義にするか,非常に難しい問題である.卒業論文や応用に直結する分野の講義にモチベーションをもたせることは比較的易しいが,統計学だけでなく数学や物理学の基礎科目などを,自主的に選択してもらうこと,また,これらを楽しく教えることは難しい.しかしながら数学や物理学は,理科系の基礎科目として履修しなければならないというコンセンサスが教官の間にも学生にもあるから,楽しくなくとも,これらの講義がなくなることはあり得ない.統計学は,この点でも一見弱い.

しかし,統計学は,数学や物理学よりずっと広く日本社会にインパクトを与えるのではないだろうか.数学によって論理的思考が養われるという.日本人は,初等中等教育での数学の成績は先進国の中でもトップクラスであったが,論理的な人間になっているであろうか.否である.欧米人はしばしば,"Statistics say…"という表現をよく使う.一方,日本人は数値やデータの使い方が極めて下手である.データを用いて論理的に語る,21世紀にはそのような国民性を育てて行く必要があるのではないか.議論の中で数字を出そうものなら,「数字で煙に巻くつもりか」というりアクションが典型的である国民性から早急に脱却すべきである.そのことに統計学は(数学や物理学よりも)貢献できるのではないかと思うのである.

講義では,データの見方,特に,生データから見えないものが見えてくることの喜び,言い換えると「データの魅力」を伝えたい.統計学の短期的な必要性を訴えるためには手法の教授が欠かせないが,統計学者が真に伝えたいメッセージは「データの魅力」である.以下は,筆者の講座のキャッチコピーである:

「科学はデータを採ることから始まります.データは,眺めているだけでは単に数値や記号の集まりにしかすぎません.しかし,データは語りたいのです.「マイクロフォン」を近づけると,一見無機的な数値・記号が暖かい心を語りはじめます.私たちはその語りを正確に無駄なく汲み取る「耳」を準備することになります.私の研究テーマは,高性能なマイクロフォンを作成すること,そして,皆さんの耳を立派にすることです.」

11. 最期に
本論文の要旨は,統計学者に「有意な共同研究」を勧めるものである.統計学者は応用の研究者と共同研究を行い,実質科学の論文を応用論文として,方法論の論文を統計学の論文として学術雑誌に掲載する.これがここで言う「有意な共同研究」である.「有意な共同研究」を行うことで,(i) 21世紀における統計学パラダイムの変化への契機を得ることができる,(ii) 統計学者の研究者としての地位向上が期待される,(iii) 統計学雑誌のインパクトファクターが向上する,(iii) 応用研究者への説明責任が果たせる,(iv) 境界領域の活性化の先導を切ることができる,(v) 講義に,学生の興味を惹く実際的な例が使えるようになる,などの直接的な効果を生むことができる.

平成11年7月に行われたシンポジウムには100名を越える参加者があり,活発な議論がなされた.しかし, 21世紀を担うであろう30代・40代の統計学者の参加は十分でなかったと思われる.若手研究者はもっとこのような議論に興味をもつべきではないか.未だに,統計学の将来については対岸の火事のように受け止めている統計学者が多い気がする.

吉村[5]には「統計学者は保守的ですね」というフレーズがある.その通りと言わざるを得ない.多くの統計学者が修士論文や博士論文の延長上で仕事をしている.数学や哲学のように深さを要求される学問では,どうしても保守的になる.最先端の研究にたどり着くまでに莫大な準備が必要だからである.確率論をベースとする数理統計学者が,そのような意味で保守的になることも理解できる.しかし,統計学の健全な発展のためには,数理統計学者も応用との接点を常に意識しながら研究の方向性を探っていく必要があるのではないか.

統計学者の保守性は生得的なものではなく,多分に教育の問題と思われる.工学部では,「時代(の流行)に合わせて専門は変えていくのが常識」と聞いたことがある.応用の研究者からの信号を敏感に受けとり,時代の要請にマッチした方法論を研究するという柔軟な姿勢をとれる統計学者が求められている.

統計学科を作らなかったこと,統計学者の評価が高くないこと,統計学者の後任人事で統計学者を採用してもらえない可能性,自主的に統計学を履修する学生が少ないことなど,統計学界には重大な危機が訪れている.しかし,このような危機に早く気づけば気づくほど早期の対応が可能になる.危機感にさらされた分野ほど国際競争力が強くなる.統計学者はこれらの負の現状を早く認め,21世紀へ向けて新たな展開を起こそうではないか.これは著者自身へのメッセージでもある.

謝辞 統計学のパラダイム変化についてのシンポジウムをお世話下さり,また,このような小論を著す機会を与えてくだった吉村功教授(東京理科大学)に心より感謝いたします.

参考文献
[1] 浅田彰他(1986).科学的方法とは何か.中公新書.
[2] 窪田輝蔵(1996).科学を計る:ガーフィールドとインパクトファクター.インターメディカル.
[3] SCI Journal Citation Reports (1997). Institute for Scientific Information.
[4] SSCI Journal Citation Reports (1997). Institute for Scientific Information.
[5] 吉村功(1999).21世紀に向けての統計科学:シンポジュームへの問題提起.日本統計学会誌.29(3) in press.


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